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国指定重要無形民俗文化財

祭り 祭り


祭り

 今からおよそ1,100年前の夏、真鶴岬の三ツ石の沖合いに毎夜ふしぎな光が現れ、海面をこうこうと照らしていました。ある日「平井の翁」という人が磯辺に出てはるか沖を見渡したところ、光を背にした一隻の屋形船が波間に浮かび磯辺に近づいて来るので、船内を調べると、木像12体と「この神をお祀りすれば村の発展がある」と記された書状がありました。そこで翁は村人と力を合わせて社を建て、村の鎮守の神としてお祀りしたのが現在の貴船神社と伝えられます。
 その後、村民の間に深く信仰され、17世紀中頃には船に神霊をお移しして港内の漁船、石船の祈祷をして回り、また、神輿が3年に1度村内を渡御するようになり、現在の貴船まつりの起こりと言える基本形式が生まれました。

   

近世以降の真鶴の人々は、生活の基盤を漁業、石材採掘業、石材回漕業などにおいていましたが、当時の漁業、回漕業に使用されていた船は型の小さい帆船が多く、石材業においても現在のような機械の導入がないため、いずれも厳しい自然のなかで、常に危険にさらされながらの生活でした。このような日常の苦労が、独自の技術と村落の団結力、そして篤い信仰心を高めて行き、これが貴船祭りに結集され、祭りの特色を作ってきました。それらは、祭りに登場する船の構造や進水、操船の方法や腕くらべ、力くらべともみられる各行事、また各部組織の結束や祭りに関する厳しいしきたりなど随所にみられます。
 古来、貴船まつりは「恩返しのまつり」と言い伝えられてきました。漁業や海運業、石材業界における大漁や安全の祈願とともに、また、それ以上に日常の安泰な活動の営みへの大いなる加護に深い感謝の心を込めて、夏の真鶴の熱気をさらに高めつつ、勇壮・華麗に繰り広げられます。

祭り

 7月27日(宵宮)の朝、東西小早船が進水し、これを「水浮」といいます。)お仮殿前の海岸に神輿船、東西のはやし船、櫂伝馬とともに並びに待機します。
 献幣使の神輿船乗船を合図にはやし船は一斉にはやしを打ち込み、櫂伝馬が他の諸船を曳航し、宮の前海岸に向かいます。(「お迎え」といいます。)海岸に到着した献幣使以下一行は鹿島連の出迎えを受けつつ神社に向かいます。
 この後神社において例大祭が行われ、祭典終了と同時に境内下で鹿島連による鹿島踊りが奉納されます。神社では発輿祭が行われ、神輿・鹿島連・神職、祭典役員等は諸船がけい留されている宮の前海岸に向かいます。神輿船に乗船後、再びはやしが打ち込まれ、各船はお仮殿前の海岸に向かい、一向は上陸します。
 神輿は上陸後、磯崎の東船上げ場附近で海中に入るなどの後お仮殿に入御し、仮殿祭がとり行われ、終了後、鹿島踊りが奉納されます。また、花山車は発心寺から下降し、お仮殿に納められます。
 夜はお仮殿前で歌謡ショー等が繰り広げられ、宵宮の日程は終了します。

  7月28日朝、花山車はお仮殿前に、鹿島連は西本払いで待機後、それぞれ同時に出発し、その中間地点ですれ違います。(「あいちがい」と言います。)鹿島連がお仮殿前に到着後、発輿祭が行われ、この後、鹿島踊り、花山車が順次奉納され、花山車、鹿島連、神輿、はやしが町内渡御をはじめます。
 夕方、町内を巡った神輿がお仮殿に入御し、鹿島踊りが奉納されます。このころ、東西の小早船には舳乗り役の長老が乗船、各船には提灯に灯がともされる等出航の準備を完了しています。
 お仮殿前の鹿島蹄りが終わり、斉主の乗船を合図にはやしが打ち込まれ、諸船は宮の前海岸に向かいます。(「お送り」といいます。)その後、神輿が神社に環御し、鹿島踊りの奉納でこのまつりは完了します。


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